ポール・ケアホルム展 in KYOTO【M的観察記】
先日、お休みを頂いて京都にある両足院という寺院で開催された
「POUL KJÆRHOLM IN KYOTO ポール・ケアホルム展 in 京都」に行ってきました。

(以降書く内容が完全に北欧家具が好きなだけのM的正直観察記になりますため、ご了承ください。)
家具がお好きな方はぉお!となる巨匠デザイナー「ポール・ケアホルム」ですが、名前が先行しすぎている気がして、作品(家具)に対する正当評価はなされているのか、と考えることもありました。
椅子を見るだけでは、なんでこんなに家具が高い・・・?となる方も多いのではと思います。
かくいうMも北欧家具店で働いていたこともあり、ポールケアホルムの作品は当時から見ていますが、10年前こう思っていました。「確かにかっこいいけど、(値段が)高すぎるんじゃ・・・」と。
ただ、今回の展示は本当にフリッツハンセン社の新しい取り組みを感じましたし、自分が感じていた違和感がスッと消え、さらには普遍的な強さや美しさまでも感じるような、不思議な体験でした。これは書き留めねば、と思ったので少し時間が経ってしましましたが思い返しながら書いていきます。
ポール・ケアホルムの生い立ちと共に展示を振り返っていきます
1929年デンマーク生まれ。
もともとは絵を描くことが好きで画家を目指していたケアホルム、幼い頃に負った怪我の影響で左脚に障害が残ってしまいます。
そんなケアホルムを心配した父親が「手に職をもたせたい」と勧めたのが木工職人への道でした。
ケアホルムは15歳で木工マイスター「Th.グロンベック」に弟子入りし、4年間専門学校に通いながら木工マイスターの資格を取得します。
資格を取得後、本格的にデザインを学ぶため、コペンハーゲンに移り住み、デンマーク美術工芸学校に通うようになります。
この学校で当時、教師として教鞭を執っていたハンス・J・ウェグナー(CH24など数多くの名作を生んだ巨匠)と出会い、ケアホルムのデザイナーとしての道が開かれていきます。
(この時点で、この二人が師弟関係だったこの時代、黄金期すぎる・・・と興奮気味になるM)
当時の北欧家具といえば木製家具が主流の時代。
そんな中、ポール・ケアホルムが着目したのが「スチール」でした。
スチールは木などの天然素材と同様に芸術的な敬意に値する素材であるとケアホルムは考え製作を進めていき、卒業制作では「PK25」を発表します。

PK25はポールケアホルムの原点とも言われており「エレメントチェア」という呼び名でも知られています。
(このPK25を制作したのは当時22歳・・・!末恐ろしいです。)
一枚のスチール板からつくられる継ぎ目のないフレームと、麻ひものロープ。 たった二つの異素材(金属と天然素材の麻)を組み合わせたこのラウンジチェアは徹底的にムダをそぎ落とした抜け感のある究極のラウンジチェアともいえます。
木製家具が主流だったこの時代の家具の歴史を一新させる、革新的な存在であったことは間違いなく・・・
展示ではこのようなバラした形で見ることができました。
そしてウェグナーの事務所で非常勤として修行した後、約1年と短い期間ではありますがケアホルムは「フリッツ・ハンセン社」に入社します。
その頃のフリッツ・ハンセン社は、アルネ・ヤコブセンなど多くの著名デザイナーの作品を世に出し、北欧デザインの中心として重要な役割を果たしていました。(今でもその名声は健在ですが。)
そしてここにもドラマがあって!
ケアホルムに、ライバルが現れます。
それが世界的に有名な「アルネ・ヤコブセン」です。

この時代背景、だいぶ痺れませんか。。
当時まだ量産技術が追いついていない時代。
ケアホルムが発表した「PK0」とヤコブセンの作品「アントチェア」、どちらを優先して生産していくかで一悶着あったそうです。
そして最終的に選ばれたのは量産性の高いアルネ・ヤコブセンのアントチェアでした。ケアホルムの革新的なデザインはもちろん称賛されましたが、特に量産が難しいとされたPK0への理解は得られませんでした。
この状況に失望したケアホルムは、やむを得ずフリッツ・ハンセンを退社することになります。
PK0は当時は販売されず、1997年フリッツ・ハンセンの創立125周年記念で600脚のみ限定販売されました。しかし、それ以降は一度も復刻されていません。
今回の展示は2022年に復刻された「PK0 A」。実際に座りました。。感動。
アントチェアの圧倒的な成功を目の当たりにしたケアホルムは、自身のデザインに対する強いこだわりと、新たな表現への挑戦をデザインします。
挫折からくる新しい挑戦・・・!シンプルな言葉しか出ませんが、かっこいいです。
ダイニングチェアという領域で既に大きな成功を収めていたヤコブセンに対し、ケアホルムはラウンジチェアという新たなフィールドで、自身のデザイン哲学を追求していったのですね。
そして誕生したのが、今回の展示の目玉とも言われる「PK23」。
フリッツ・ハンセンの技術を持っても当時は安定的に量産することは困難でプロトタイプのまま日の目を見ることはできなかったPK23が約70年の時を経て復刻しました。
こちらも実際に座ることができました。幅広で座面が低く、左右対象のシートデザイン。それでいて体にフィットする心地よさ。
日本で初お披露目ということもあり、たくさんの方が次々に座っているのが印象的でした。70年前には製造できなかった技術が、今目の前にある・・・という不思議な感覚があったのは覚えています。
ただ正直、実際に座った時はポップや説明文など特に説明があるわけではないので、ここまでの感動は感じませんでした(笑)今こうして時代背景と共に写真を眺めていると、感慨深く感じますし、本当に貴重な時間だったと感じます。
その他の展示も全ては人が多すぎて写真に収めきれていませんが、PK4、PK15 PK20、PK9、PK54、PK31、PK33、PK61、PK62、PK80 、PK4、PK71などなどなど。見応えたくさん。もう何が何だか分からぬ。。。となりましたが。
実際にこれだけのケアホルム作品を一度に見ること、座ったり寝たりすることも初めてだったので、素晴らしい機会でした。
それぞれの制作途中のルーツや、自然素材のパーツを見れるのも良かったです。


ボルトなどのパーツや大理石、石、ガラス、アクリルなど天板に使う素材たち。
ケアホルムは「自分自身の個性よりも、素材の個性を表現したい。」という言葉を残しており、その考えも展示に含まれているようでした。

ケアホルムはフリッツ・ハンセン退社後は、ハンス・J・ウェグナーの事務所で勤務していた時に知り合ったEjvind Kold Christiansen(アイヴァン・コル・クリステンセン)と作品を作り上げ、亡くなるまではアイヴァン・コル・クリステンセン社から発売されています。
そこで発表された代表作とも言える「PK22」や妻で建築家であるハンネ・ケアホルムが建築した自邸で使う家具をケアホルムがデザインしたりと、常に機能美×暮らしを軸に研ぎ澄まされた家具をデザインしてきました。
一部ではありますが、今回の展示で見て触れて、感じることができてそして実際に「見る」ことに加えて時代背景を「知る」ことで、より一層そのモノの価値、ケアホルムの強いこだわりに触れることができた気がします。
そして1番感じたことは両足院という日本の寺院とケアホルムの「調和」が凄まじかったこと。よく北欧と日本の家具は相性がいいと言われますが、
このスチールをメインにしたケアホルムの作品がこれほどまでに調和するとは。本当に違和感がなく家具が空間に溶け込んでいて、とても心地よかった記憶があります。
これこそケアホルムが自認していた「家具の建築家」を体験できた時間ともいえて、家具が重要な役割を担っているのは本当だと、感じました。
当時緊張状態だったケアホルムとフリッツハンセン社。
彼の死後、家族の賛同もありまた新たに生産がスタートしたフリッツハンセン社が届けてくれた今回の新しい取り組み。
開催当日にはケアホルムの息子さんであるトーマス・ケアホルムがトークショーを行ったそうです。羨ましい・・・
すごく昔の出来事のように感じるけど、実際は1980年に51歳という若さで亡くなっているわけでそこまで私たちと遠い人ではなく。1950年〜30年ほどの期間に生まれていたら、と想像したりもしました。
製造技術や物資の状態が違う昔を生き抜く巨匠たち、かっこいいなで終わるのではなく、各々が継承し、敬意を忘れず、そして超えていくガッツさが大事だと、感じたMでした。
また一つ、貴重な経験をしたので、仕事や生活、自分自身の気持ちの糧になりました。コツコツ、進んでいきたいです。
こーーーんな長文になってしましましたが、ポールケアホルム展IN KYOTOを少しでも感じて頂けたら嬉しいです。

(最高でした。)